土浦市立考古資料館|茨城県土浦市

概要

読み方
指定
形状
規模
築造時期
特徴
令制国

行き方

 上高津貝塚に隣接
 駐車場あり

 

探訪レポート

探訪日:2022年1月22日(土)
※掲載写真は断りがない限り当日撮影したものです。
※掲載写真はクリックで拡大する場合もあります。

 道を間違ったようで変な場所にきてしまいました。

 どうやら、上高津貝塚の裏のようですが、説明板らしきものがあるので確認してみましょう。

 

 なるほど、いま通ってきた道が古道だったんですね。

 

 では、仕切り直して改めて資料館へ行きましょう。

 
 

 

貝塚について

 土浦市立考古資料館は、上高津貝塚に隣接しており、また、霞ヶ浦沿岸は貝塚が多いですから、貝塚についての解説が豊富です。

 下図は縄文海進期の地形を表しています。白い場所が入海で、黄緑色の場所が湿地帯だった場所です。

 

 縄文海進と言っても、大きく前期と後期の2度あったのですが、上高津貝塚は後期海進の頃の貝塚です。ただし、前期でも後期でも、当時の海岸線はそれほど変わらなかったはずで、それどころか、霞ヶ浦沿岸は中世の頃まで広範囲に入海や湿地帯が広がった地域でした。

 

 当然ながら場所によって取れる貝が違いました。

 

 また、海水も今より暖かかったため、現在の貝の生息範囲と異なることがあります。 

 

 上高津貝塚から見つかる貝はこちらです。

 

 とくにヤマトシジミをたくさん食べていたことが分かっています。

 

 

出土遺物

 上高津貝塚から出土した土器。

 

 元の形まで接合できた土器の展示は少ないです。

なぜか左側の土偶の写真を撮るのを忘れたので次に行ったときに撮ってきます。

 

 

 こちらの晩期の土器は優品です。

 

 こちらも晩期の土器。

 

 他の遺跡から出た土器としては、小松貝塚と六十原遺跡出土のものが展示してあります。

 

 土偶に関しては、前谷西遺跡出土の前期の板状土偶も展示されています。

 

 まだプリミティブな段階の可愛い土偶ですね。

 

縄文時代の製塩

 上高津貝塚では、製塩遺構が見つかっており、貝塚の方に見られるように復元展示がされています。

上高津貝塚にて撮影
 

 人間は塩分を摂取しないと生きていけませんが、日本人が塩を作り出すようになったのは縄文時代後期からで、それも列島各地の海岸で行われていたわけではなく、製塩遺跡は分布にムラがあります。

 そんな中でも、霞ヶ浦沿岸は多いイメージがあります。

 

 製塩作業のイメージジオラマ。

 
 

 製塩土器は、いわゆる粗製土器で、使い捨ての簡単な造りの土器で装飾もほとんどありません。

 こちらは上述した製塩遺構で見つかった土器です。

 

 こちらは神立平遺跡の製塩土器。

神立平遺跡の製塩土器
 

 塩分濃度が薄いと塩は作れないため、このような手法がありました。

 

 話が飛びますが、私は古代吉備勢力の力が大きかった理由の一つとして、塩の生産による経済の豊かさがあったと考えています。ところが、瀬戸内海は塩分濃度が薄いため、単に海水を煮て蒸発させるだけでは塩は作れず、古代においてどうやって塩を作ったのかははっきり分かっていません。岡山の研究者は、上で述べられているようなやり方で作っていたのではないかと話していました。

 

 骨髄は人類の大好物のひとつですが、人類は260万年前に石器を発明すると、それまでよりも効率的に骨髄を食べられるようになりました。

 

 

建物外の展示

 
 
 
 

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