特徴
読み方 | つくりやまこふん/ぞうさんこふん |
指定 | 造山古墳 第一、二、三、四、五、六古墳 |
形状 | 前方後円墳 |
墳丘長 | 350m(説) 全国4番目の大きさで、登れる古墳としては日本一 |
築造時期 | 5世紀前半(集成編年5期) 円筒Ⅲ式・Ⅳ式 |
その他 | 3段築成 前方部くびれ近くの両側に造出あり 周堀は全周していたか不明 角礫の葺石 2023年1月に訪れた際は、史跡公園としての整備が進んでいた |
行き方
カーナビには、造山古墳ビジターセンター(岡山市北区新庄下789)をセットすると良い
駐車場あり
探訪レポート
探訪日:2023年1月12日(日)
※掲載写真は断りがない限り当日撮影したものです。
時間が経つのは意外と早く、もう14時になろうとしています。
そろそろペースを上げないと最後まで行けないかもしれない。
まずは、「吉備の大王」と一緒に墳丘の横っ腹を撮影してみます。
Webを見ると、皆さん結構このアングルの写真を撮っていますね。
しかし、墳丘長350mは巨大だ。
中期前半の築造ということで、前方部の高さもせりあがってきているように見えます(後述しますが、実際には後円部から前方部を見下ろすと結構高低差があります)。
本当は周辺の陪塚を含めて歩くと良いのかもしれませんが、今日は先ほど立ち寄った4号古墳とこれのみ。
では、一般的な見学路を通って墳丘に登ろうと思います。
おや、なんかちょっと以前と雰囲気が違う。
なんかスッキリしているなと思ったら、南東側のくびれ部分にあったお宅が数軒なくなっているんですね。
これも本格的な整備の一環でしょうか。
数年前に土砂崩れになり補修したところも良く見えます。
ではここで、造山古墳ビジターセンターに展示してある図を示し、墳丘について確認してみましょう。
この図は、天正10年(1582)の秀吉による備中高松城の水攻めの説明用の図なので、陣城として利用された造山古墳を表した図ですが、見ての通り、墳丘東側の1段目と2段目の大部分は現状では分からなくなっています。
後円部は3段築成で、前方部も3段ですが、前方部の場合はさらにその下に基壇のような部分もあって、それを入れて4段築成とする考え方もあるようです。でも、私的にはこの図からは前方部も3段と判断します。
上掲写真に見える更地になっている部分は墳丘の1段目で、その写真には写っていませんが、さらに右手の造出があった場所にはお家が建っています。
階段を登り前方部の墳頂に到着しました。
巨大古墳なので階段の段数はそこそこあります。
お、広大な前方部では何やら工事中ですよ。
あとで行ってみましょう。
見下ろすと、スッキリしたのが分かります。
この写真の右側の家が建っている辺りに造出がありました。
初めて来たときはこんな感じで、崖崩れが起きた後の修復がまだできていなくて、ここから後円部側へは通行止めになっていました。
それでは、前方部にある神社にお参りしてから墳丘を見てみましょう。
ここにも説明板があります。
ここに記されている通り、墳丘長では全国第4位で、登れる古墳としては日本一です。
なお、全国の古墳の大きさランキングは、拙サイト「AI World」に掲載しています。
前方部には上の説明板に記されている石棺が置かれています。
「王者の石棺」とも言われる刳抜式の長持形石棺ですが、阿蘇溶結凝灰岩で造った石棺は、畿内でもたまに見ることができ、吉備にも持ち込まれているんですね。
阿蘇溶結凝灰岩は9万年前の阿蘇の噴火の際に形成された石で、福岡県八女市にある筑紫君磐井が造らせた岩戸山古墳などで見られる石人石馬(石製表飾)も同じ石で作られていますよ。
こちらは、直弧文が刻まれているという石棺の蓋ですが、なんとも雑な扱いです。
蓋の近くには説明板がありますが、身と蓋が離れた場所に置かれている意味もよく分かりません。
石棺の出土場所がはっきりしないのが歯痒いですね。
あ、千足古墳を造ってる!
リアルタイムで古墳を造っているところを見られるなんて貴重ですね。
きっと古代の王は、自分が葬られる古墳の建築現場をこうやって眺めていたんだと思います。
うん、良い仕上がりだな、入るのが楽しみだ、とか。
前方部の隣では、着々と整備工事が進んでいます。
同じ前方部でも、神社がある場所と工事中の場所とでは高低差を感じることができますが、これも城に改造した時の名残でしょうか。
なお、以前来たときは2度とも時期が時期だけに草ぼうぼうでした。
では、後円部に行ってみます。
整備工事を見てみると、元々あった樹木を活かしつつ、表面を舗装して一般的な公園のような佇まいになっています。
完成形がどうなるのかは分かりませんが、もし、これにベンチを置くくらいで完成だとちょっと味気ないですね。
同行者からも「さすがにこれは無いよねー」と、半ば悲鳴にも似たような声が上がりました。
崖崩れの補修跡を上から見ます。
工事中の場所を横目に見ながら、後円部を見てみると、ここも段々になっています。
元々の古墳の形状は、後円部から前方部にかけてスロープ状の斜路があったのですが、城として改造された際に、当然ながら城は登りやすいとまずいですから、切岸を造って帯曲輪状のものを何段にも設けたのです(上掲の図を参照)。
後円部との連絡用の階段は現状ではちょっと歩くのが危ないです。
後円部に登ると、縁の部分に土塁が残っていますよ。
いいねえ、城の佇まいだ。
城に改造された古墳は結構あるのですが、造山古墳はその中でもしっかり改造してある方なので、ここには古墳マニアと城マニアの両者が来るんですよ。
私のように両方好きな人は一粒で二度美味しい。
改造時に墳頂を少し削り、土塁は元々は一周していたようです。
造山古墳の葺石は、よくある丸い河原石ではなく、山から取ってきた角礫を使用しており、それが土塁を造るときにも利用された形跡があり、ちょっとした石積みのようになったかもしれません。
前方部を見下ろします。
でかいですね。
後円部に来ると必ず確認するのが、最上稲荷の大きな鳥居です。
あの鳥居が見えると、清水宗治の居た備中高松城が分かるんですよね。
鳥居のすぐ左側が備中高松城跡です。
では、次の探訪地であるこうもり塚古墳へ行きましょうか。
造山古墳さん、さようなら。
ちなみに、今回は時間の都合で前方部墳端側の地獄谷へは行きませんでしたが、以前撮影した写真を掲載します。
段築が分かりますね。
説明板にはとくに変わったことは書かれていませんが、千足古墳の石室について特筆してあります(これについては、千足古墳のページで述べます)。